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考察・覚書

 研究会の活動を通じて、生成過程や語句註釈、資料の検討などについて疑問や〈読み〉が生じてきます。決して一定の解に到っているわけではありませんが、それらを示すことで、研究会として継続的に発展させたり深めたりしていくことができるでしょう。また、研究会だけでは見出すことができない知見に到ることができるかもしれません。森敦文学研究の可能性を開いていければと思っています。
 そこで、分類的に研究会のテーマごとにできる限り分類して示すこととしました。

  1. 生成過程に分類される考察・覚書 → 生成過程系
  2. 作品風景に分類される考察・覚書 → 作品風景系
  3. 物語地図に分類される考察・覚書 → 物語地図系
  4. 語句註釈に分類される考察・覚書 → 語句註釈系
  5. それ以外の考察・覚書 →その他〈読み〉や発表方法など

発信方法を考える

 このページでは森敦文学研究を〈素材〉として、研究成果の伝え方、見せ方についても考えていきます。何を発信するかだけではなく、何をどのように発信するかということです。インターネットというツールは、従来おこなわれてきた論文を書き、発表するといういわば紙媒体による実現から、もっともっと別のまとめ方や発信の方法を考えさせてくれます。むろん、従来の方法を否定するわけではありません。その有効性は十分に認めつつ、その上でさらに別の方法を模索することもできるでしょう。
 常に様々なアイデアが試みられているHTMLとcss、javascriptなどを駆使する技術と文学研究との接続は、研究成果の表現についても考える可能性を秘めていると考えています。


生成過程系考察・覚書

原稿裏面の指示について

 雑誌「群像」連載第5回に相当する【⑤初出の複写】の一枚(雑誌「群像」P327、単行本P66L8~P68L1に該当)の裏面に、文章の修正を指示する紙片が貼りつけられている。その内容を以下に翻刻する。

上段、9行目。
「すでに知られるとおり」
〈「すでに」の部分を丸で囲み〉前の方で、「じんぜん」の初出の所で、手入れで削除した為、「すでに」ではない。


 以上の指示が書かれている。この指示は森敦以外の筆跡と推定され「上段~とおり」までは青ペンで記され、「すでに」を囲んだ丸および「前の~ではない」までは鉛筆で記されている。この指摘は単行本のP66L13を指す。「「じんぜん」の初出」とは単行本のP37L7のことと推定される。この部分では【④初出(雑誌「群像」の本文)】の段階でじんぜん(甚左ヱ門)がサキの家の家号であると語られるが、指示にもあるとおり【⑤初出の複写】の段階でその記述は削除されている。しかし、「すでに知られるとおり」という一文は削除されることなく、単行本に至るまで残り続けている。したがって、「すでに知られるとおり」の指示内容は定められないことになるであろう。

自筆原稿の挿入(鉛筆書き)について

 単行本P65L11P65L14の生成過程(雑誌「群像」連載第5回)において、【①自筆原稿】の段階で鉛筆書きによる書き換えが行われている。しかし、鉛筆書きであったためか、その痕跡は【③自筆原稿の複写】には残っておらず、緑色のボールペン字で、再び書き換えが行われている。書き換えの内容は似通っているが、その文章が記された位置が違うことから、翻刻に際しては文章の削除と挿入の順番が大きく変わっている。
 なお、生成過程ページでの翻刻の掲載は本来、異同を見やすく表記するため便宜的に空きを設けているが、この二箇所に関しては、空きを設けるとかえって見づらくなることから、空きを設けずに掲載している。

「逝」のしんにょうについて(第六回)

 単行本P73L18「逝くものが逝けば西の方から」という一文の生成過程では、【⑧単行本念校】の段階で一文字目の「逝」のしんにょうが2点しんにょうになっており、それが1点しんにょうの「逝」へと書き換えられている。ただ、2点しんにょうの「逝」のフォントが存在しないため、便宜的に1点しんにょうの「逝」を用いた。見たままの再現を原則としている翻刻作業にとって、手書き文字をパソコンやwebで再現する際のフォントの問題は今後の課題となるであろう。

記号化されたじさま

 じさまの名が甚左ヱ門であるということは、だだが出征する際の上海の演説によって明らかになる。しかし、甚左ヱ門という固有名で呼ばれることはない。サキの家には「じんぜん(甚左ヱ門)」という家号があることから、【④初出(雑誌「群像」の本文)】までは

仰々しくその姓名は挙げぬまでも、門出を祝って軽々にサキの家と呼ぶことをやめ、せめても加茂のひとが言うように、じんぜんと呼んでやらねばなりますまい。

としている。
 義太郎のががも「じんぜん(甚左ヱ門)のじさま」と呼ぶことから、甚左ヱ門ではなく「じんぜんのじさま」として通用していると言えよう。つまり、はじめから固有名で示される個ではなく、家号という家の名で呼ばれる個として描かれているのである。
 さらに、その家号さえ削除されてしまうのである。

姓名を挙げぬまでも、サキの家をじんぜんと呼ばねばならない

という記述が【⑤初出の複写】以降で、

あらためて姓名で呼ばれると、じさま自身すら驚くぐらいで、それではかえって加茂では通用しないのです

と書き換えられる。(→生成過程第3回 No.76参照)「じんぜんのじさま」という表現が単に「じさま」となっていることは注目に値するであろう。家号さえも削除されてしまうのだ。義太郎のががも【⑤初出の複写】以降では、「じさま」と呼ぶ。(→生成過程第6回 No.113参照)「じさま」という表現がただ一人を特定するのである。
 思い当るのは、【①自筆原稿】では義太郎の家にはじさまがいるという表現が削除されていることである。(→生成過程第6回 No.104参照)義太郎の家にはじさまがいない。「じさま」はサキの家のじさまを指すのみとなろう。ここに「じさま」という三文字の指示機能を捉えられる。逆説的にいえば、「じさま」が老人を意味するじさまで捉えられるということは、抽象化あるいは記号化されているといえるであろう。

サキの年齢

 登場人物の具体的な年齢は不明であるものの、サキの年齢に関してはある程度の想定が可能である。
 生成の過程からみると、【①自筆原稿】から【④初出(雑誌「群像」の本文)】までと【⑤初出の複写】から単行本に至るまでとでは、終戦後のサキの年齢の設定が異なっていることがわかる。
 【④初出(雑誌「群像」の本文)】まででは、戦争が終わったと聞き、じさまが喜ぶ場面で、サキは小学生として描かれている。その後、「すること言うことませてい」るという表現から、サキは小学生ながらもませた少女として描かれている。いわば、精神的な方向性をもってイメージが作られている。
 一方で【⑤初出の複写】以降では身体的なイメージが付加されている。
 サキが小学生として描かれていた箇所は、初潮がきて「女にな」り、さらに学校を終えたと書き換えられている。(→生成過程第5回 No.161参照)サキの年齢は、およそ12~15歳であると想定することができよう。「すること言うことませてい」るという表現は「さすがにもう女」へと書き換えられ、(→生成過程第6回 No.163参照)その後のサキが学校へ行きたくないと言う台詞は削除される。(→生成過程第6回 No.164参照)それは、思春期を迎える少女をイメージさせる書き換えと言えるであろう。
 【④初出(雑誌「群像」の本文)】以前よりも【⑤初出の複写】以降の方が、身体的な方向性をもって、サキという人物のイメージによりリアリティを帯びさせると捉えられるであろう。

作品風景系考察・覚書

加茂の季節

 雑誌「群像」連載第5回にあたる部分では、季節の表現が大きく書き換えられている(→生成過程ページ参照)。【①自筆原稿】から【④初出(雑誌「群像」の本文)】の段階では、「そろそろながい冬が終わろうとするころ」とあり、季節が冬の終わりであるとされている。しかし【⑤初出の複写】では大幅な書き換えが見られる。

〔海も雲も次第に和んで、そろそろながい冬が終わろうとするころ、〕〔加茂もいよいよ〔□□〕冬にかかろうとするころ、はやくも〕 海も雲も次第に和〔ご〕んで、そろそろ    加茂も春を迎えようとするころ、はやくも 〔〔加茂もそろそろ〔□〕厳しい〕加茂の冬は海からの吹雪また吹雪で想像〔以〕を〔終〕するほど厳しいのです。わかぜもほとんどいなりましたが、みな結束して冬を過ごし、海も雲も次第に和んで、

【④初出(雑誌「群像」の本文)】まであった「そろそろながい冬が終わろうとするころ」という記述は削除され、代わりに「そろそろ加茂も春を迎えようとするころ」となる。注目されるのは、わかぜが結束して冬を過ごすという描写が新たに加筆されようとしていた点である。しかし結果的には削除される。それは生活感がなくなり、季節が冬から春に変わったことのみを意味している。
 【⑥単行本初校】からは、季節に加えて年月の語りも見られる。

あれから一年が過き、また夏〔も〕が過ぎ、秋〔も〕が過ぎ、冬〔も〕が過ぎ〔て〕海も雲も次第に和んで、〔そろそろ〕ふたたび加茂も春を迎えようとするころ

 という書き換えにより「一年」という年月を経たことが明示され、さらに「また」という語りから、だだが出征してから季節が巡っていることが読み取れる。ただし何度季節を巡ったのかは読み取れない。どれほどの年月が過ぎたのであろうか。
【⑦単行本二校】からは、【⑥単行本初校】で加筆された「ふたたび」が生かされず、削除されたはずの「そろそろ」がそのまま生かされ、

「あれから一年が過ぎ、また夏が過ぎ、秋が過ぎ、冬が過ぎ、海も雲も次第に和んで、そろそろ加茂も春を迎えようとするころ」

 という一文に定着する。それは単行本本文になってからも変わらない。
 加茂の季節は巡っている。しかし、加茂に折々の四季を読み取ることはないのである。

物語地図系考察・覚書

地名が書き換えられないこと

「われ逝くもののごとく」の生成過程を精査していると、当然ながら夥しい書き換えに遭遇し、その整理に困惑することもしばしばである。そのなかで、ほぼ書き換えられないのが地名である。とくに「われ逝くもののごとく」は冒頭で、地理的な説明がおこなわれているが、ほぼ書き換えなく、そのまま定着している。むろん、地名だから書き換えられるはずはないとは考えられる。あるいは森敦自身が想定していた物語舞台は、はじめから決定されていたとも捉えられる。それが穏当な見解であろう。だから、作品地図を作成できるし、実際に現地に赴き、調査を行うこともできている。
 地名に書き換えがないこと、夥しい書き換えがなされている生成の過程にあって、それは逆に特異に見える。書き換えられる語句がイメージを構築するのであれば、地名もその範疇にあるはずだからである。選ばれる語句ひとつで、印象が変ってしまうのがイメージであるならば、地理的に表象する地名が書き換えられないことは、つねにすでに固着したイメージであると捉えられよう。
 地名は、当然地図を参照可能にする。地図は人々が暮らす地を指し示す図でありながら、しかし、そこには誰も暮らしてはいない。固着したイメージである地名は、誰も暮らしていない記号系の地を現働化しつつ、その系列である虚構の物語舞台を成立せしめる。サキたち一家をはじめ「われ逝くもののごとく」の登場人物のほとんどがモデルなしとなるのは、たんに虚構だからではない。虚構の地に住むからである。物語舞台が最初から書き換えられない地名で成立する理由の一端をここに見ることはできるであろう。

語句註釈系考察・覚書

「じさま」という呼称

 現地調査で庄内地方(鶴岡市)に赴いたとき、「じさま」という呼び方について伺う機会を得た。いわゆる昔から続く家、格式が高かったり裕福だったりする家では「じさま」と呼称するが、一般的には言わないとのことであった。じんじであったりじんじぇ(最近ではじいじ)であったりするそうである。
 この話は森敦文学研究にとって、たいへん興味深い視点をもたらしてくれそうである。「われ逝くもののごとく」をはじめ、森敦文学では「じさま」と語り手が語るからである。語り手がじさまと呼称すること、これは語り手の社会的、階級的な立場であったり言語、方言の位相であったりが捉えられる。これは作品構造を考える上で、特徴的な問題を有しているのではないだろうか。とくに「われ逝くもののごとく」の後半で出現する「わたし」の捉え方にとって、意味を発揮しそうである。
 付け加えて言えば、森敦自身の庄内放浪の経験を考慮すると、「じさま」という呼称をそうそう聞くことはなかったかもしれない。が、森敦は語り手と同様の位相で放浪していたと捉えるべきであろうか。構造的には実体論的な前提は不要かもしれない。しかし、現地調査で得られた情報や森敦についてすでに知ってしまっている情報を取り入れた〈読み〉も森敦文学の研究には必要となるであろう。

「あば」として解釈できる

 第1回の註釈で取り上げた「浜のあば」に「森敦エッセイなど」で挙げるべきか判断に迷ったエッセイがある。森敦は、注連寺滞在時に三栗屋を訪れたとき、「見目のよい若い女」に出逢った。この女性は七五三掛まで魚を売りに来ていた。

春の虚空蔵菩薩の祭りで家から家へ馳走になって歩くうち、ふと親しげに声をかけてくれる見目のよい若い女があった。よく七五三掛に魚を売りに来て、酒を買って帰っていたのだが、呼び入れられてはいると、主人は馬方をしているとのことで、二人して酒をすすめ唄を歌ってくれたりした。 (「月山再訪」『森敦全集』第八巻 P72)

 「七五三掛に魚を売りに来て」とあるから、確かに「(浜の)あば」として認めることはできた。しかし、語句註釈でエッセイを取り上げるには、その語句がそのまま記されていることを基準としているため、「見目のよい若い女」では基準を満たさないこと、また、「浜のあば」としては、沿岸沿いに住んでいるという限定が加わるため、この文脈では相違してしまう。
 さらに、「われ逝くもののごとく」第1回は昭和の大戦の末期頃を背景としている。一方で森敦の注連寺滞在は戦後である。そのため、語釈に挙げた「鮮魚配給担当員」から外れる点もあった。したがって「森敦エッセイなど」に挙げなかった。しかし「七五三掛に魚を売りに来て」という内容は、「浜のあば」には合致している。解釈としては取り上げてもよいであろう。

その他の考察・覚書

じさまはぼんやりとしたイメージ

 この物語でじさまは正直なうえにお人好しで、ほろけた(呆けた)人物として描かれている。性格を表す描写はあるものの、行為や出来事が不明瞭な場合がある。たとえば、もう一人のじさまが現れる場面があげられる。
 じさまはだだの遺骨が届いても、だだの死を受け入れられず、だだは帰ってくると自身に言いきかせていた。ある時、じさまの目の前にだだが現れる。さらにそこにもう一人のじさまが現れ、だだはすでに逝ぎていて、夢に現れたのだと悟る。目が覚めると囲炉裡にはだだが足してくれた薪が燠になりながらも燃えている。
 この描写を不思議に感じつつも、ためらいなく受け入れてしまうのはなぜだろうか。じさまが見ていた夢とは何か、もう一人のじさまをどう捉えるか、夢であるはずなのにだだがそこにいた痕跡があるのはなぜかといった疑問が生じる。たとえば、フロイト『夢判断』では、夢の中での人格分裂と精神疾患は関連するという。

自分が二つの人格に分裂して、夢の中で他人の「自分」が自分の「自分」を訂正するといったような、夢の中の人格分裂は、幻覚的妄想症における周知の人格分裂とまったく同じ性質のものである。
(フロイト、高橋義孝訳『夢判断(上)』、新潮文庫、平成29年5月5日)


 これをふまえると、じさまは精神疾患であると考えられる。また、じさまはほろけた人物として描かれていることから軽度の認知症であるとも考えられよう。しかし、じさまが見ただだやもう一人のじさまを夢や妄想として捉え、じさまを精神疾患や軽度の認知症と捉えてしまうと、だだが確かにそこにいた痕跡はより謎めくであろう。夢から覚めても夢の中で起こっていた出来事の痕跡が残っているという話は、どこかで聞いたことがないだろうか。印象として片づけられない伝承的な物語性をもっているとも考えられよう。
 じさまの人物像を捉えようとすると、かえって不明瞭になってしまう。明確な分析の及ばない描かれ方がされていることによって、理屈では解釈できないぼんやりとしたイメージのじさまが捉えられるのである。