『校本日本書紀』全4巻

國學院大學日本文化研究所編、発行:角川書店、1973~1995年

概要

 日本文化研究所の創設にあたり武田祐吉博士をはじめ岩橋小彌太博士、中村啓信らによって始められたプロジェクトを、國學院大學創立90周年記念事業の一環に組み入れ、研究・校訂を行ったものの成果である。
 日本書紀の「神代巻」に焦点をあてて、寛文9年版第I種を底本として、佐佐木本・四天王寺本・猪熊本・兼方本・水戸本他多数の諸本を校訂に用い、底本の本文一行ごとに「本文」の項と「訓」の項を設けて校訂している。「本文」の項では、本文一行分に該当する対校本の校異が記載される。底本の本文一字またはそれ以上が、固有番号と共に抽出され、見出字となり傍注がつく。「訓」の項では底本の本文一行分の付訓に対する対校本の異同並びにヲコト注がここに記載される。訓の所在は本文の所在位置をもって示し、本文固有番号が用いられる。

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『皇典講究所草創期の人びと』

國學院大學、発行:國學院大學、1982年

概要

 皇典講究所の設立に係わりのあった人々の略伝と、皇典講究所創設建議書などの資料が収められたもの。コンパクトながら、人物伝から見た皇典講究所の沿革史である。

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『高瀬喜朴著 大明律例譯義』

小林宏・高塩博編、発行:創文社、1989年、本文解説とも773頁、索引16頁

概要

 中国明代の刑法典、明律とその追加法規の條例とを逐条に和訳した書。本文12巻、首末各1巻の全14巻。和歌山藩高瀬喜朴(号学山、1668~1749)が、8代将軍徳川吉宗の命によって享保5年(1720)に著した。難解な明律や條例の全文をだれにでも理解できるように平易明快に通釈しており、江戸時代の数多い明律注釈書中の白眉である。
 首巻に収める「律大意」は、高瀬が刑政の要諦ともいえる文を中国の諸典籍の中から抄出和訳して39箇条にまとめたもので、現代にも通ずる先進の内容をふくむ。この『大明律例譯義』は、荻生徂徠の『明律国字解』(明律の語釈)、その弟の荻生北渓の『訓点本明律』とともに、幕府や諸藩における法令の整備・運用に大きく貢献した。
 本書は、国立公文書館内閣文庫蔵の幕府献上本を底本として全文を翻刻したものである。解説として、高塩「『大明律例譯義』について」、小林「熊本藩と『大明律例譯義』」を収載し、巻末に語句索引・書名索引を附す。

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『国際研究フォーラム「21世紀における国学研究の新展開 国際的・学際的な研究発信の可能性を探る」報告書』

『国際研究フォーラム「21世紀における国学研究の新展開 国際的・学際的な研究発信の可能性を探る」報告書』
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『国際研究フォーラム「21世紀における国学研究の新展開 国際的・学際的な研究発信の可能性を探る」報告書』令和3(2021)年2月

「本報告書は、2020年2月8日に実施された国際研究フォーラム「21世紀における国学研究の新展開 国際的・学際的な研究発信の可能性を探る」における発表、討議をまとめたものである。新型コロナウィルスの感染拡大の足音が静かに忍び寄るなか、ぎりぎりのタイミングで対面の開催とすることができた。その後、感染拡大の局面となり、各種の講演会や研究会が続々と中止となった。4月7日には緊急事態宣言が発出され、大学の授業もすべてオンラインとなった経緯を振り返ると、本国際研究フォーラムを対面で開催し、国内外からの多くのパネリストと直接に議論できたことは、きわめて貴重な機会であったと痛切に感じている。  さて、國學院大學研究開発推進機構日本文化研究所は、2007年にそれまでの國學院大學日本文化研究所を発展させる形で設置された研究開発推進機構の一機関となった。そのことを機に「神道・国学研究部門」と「国際交流・学術情報発信部門」の2部門を設置し、それぞれの研究事業を推進してきた。国際研究フォーラムは、2008年から主に「国際交流・学術情報発信部門」が中心となって日本文化研究所の行事として企画し、さまざまなテーマを取り上げて議論をしてきたが、今回は「神道・国学研究部門」が「國學院大學 国学研究プラットフォーム」の構築の最終段階に入ったということで、国学をテーマに据えて実施する運びとなった。  過去を振り返れば、日本文化研究所が関わった国学に関わる国際シンポジウムとしては、2003年の「《神道》はどう翻訳されているか」(21世紀COEプログラム)があった。そこで、「国学」をどう翻訳すべきかが問われていたことが印象に残っている。 “Kokugaku”とすべきかNativismかNational Learningか。その後も国際学会などで海外の国学研究者たちの発表を聞く機会が何度かあったが、その議論はまだ決着していないと感じている。国学をどう表現するかという問題は、国学とはなんであるのか。どういうものとして論じたいのかという問いである。それは翻訳するという局面や国際的な議論の場であるからこそ立ち上がってくる問題でもある。今回の国際研究フォーラムは、まさにあらためて国学の輪郭を問い直す場になった。さまざまな地域文化を背景に持ち、広い視野を持つ国際的な研究者たちによる「国学」をめぐる議論は、ときに国学とは何かを問うことすら忘れてしまいがちなわれわれに新たな気づきをもたらした。本報告書の刊行によって、あらためてその気づきがさらに多くの方々にもたらされることを期待したい。」(平藤喜久子「はしがき」)

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『国際研究フォーラム「ミュージアムでみせる宗教文化」報告書』

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國學院大學日本文化研究所『国際研究フォーラム「ミュージアムでみせる宗教文化」報告書』令和6(2024)年2月

 本報告書は、2022年12月に國學院大學研究開発推進機構日本文化研究所の主催で開催された国際研究フォーラム「ミュージアムでみせる宗教文化」における議論をまとめたものである。
 日本文化研究所は、長年にわたって、国際的な比較の視点を組み込みながら、日本の宗教文化について研究を進めてきたが、近年は、とりわけ視覚文化との関わりにおいて宗教文化を検討することを試みている。例えば、2020年度には「見えざるものたちと日本人」という国際研究フォーラムを開催し、宗教文化においてしばしば「見えない」ことに特別な意味付けがされる一方で、それが視覚文化においてどのように描かれているのか、あるいは描かれないのか、といったことについて議論した。
また、2021年度には「日本の宗教文化を撮る」という国際研究フォーラムを開催し、宗教の実践においては実体的なモノがあり、またそれに関わる形で行為などのコトがあることになるが、そうしたモノやコトをどのように撮影し、記録し、見えるようにするのか、といったことについて論じた。
 これらは、宗教文化に関して文字資料が重要であることを前提とした上で、あらためてモノ資料や、視覚表象とその解釈などを検討しようとするものであったが、「ミュージアムでみせる宗教文化」もまたその延長線上にある。企画に際しては、どのように宗教文化を「みせる」―「見せる」であり「魅せる」でもある―のかということを基本的な問題意識とし、かつそれを、宗教文化教育という局面にも目を配りながら、「ミュージアム」という場に焦点を合わせることとした。
 具体的には、全体を二部に分けて構成し、第Ⅰ部「大学ミュージアムの中の宗教文化」では、宗教系大学に設置されている大学ミュージアムの展示担当者に登壇してもらい、宗教系大学という、ある意味で特定の宗教伝統と当事者的に関わっている立場から、どのような展示の試みがなされているのかを報告してもらった。
 また第Ⅱ部「多様性の中の日本の宗教文化」では、アメリカにおける日系人の宗教文化や、アイヌの宗教文化についての展示について報告してもらい、それらの豊かさについて学びながら、同時に日本で「日本の宗教文化」をみせようとする際の自明性のようなものを、少し異なる視点から照射することを企図した。
 本報告書が、ミュージアムにおける宗教文化、あるいは宗教文化をどのように「みせる」のかについて考えるきっかけとなれば幸いである。(平藤喜久子「はしがき」)

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『国際研究フォーラム「見えざるものたちと日本人」報告書』

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國學院大學日本文化研究所『国際研究フォーラム「見えざるものたちと日本人」報告書』令和4(2022)年2月

 「本報告書は、2020 年12 月に國學院大學研究開発推進機構日本文化研究所の主催で開催された国際研究フォーラム「見えざるものたちと日本人」の基調講演、ワークショップ「見えざるものをエガク」、「見えざるものをカタル」における議論をまとめたものである。
 2019 年の年末頃から影を落とし始めた新型コロナウイルス感染症(COVID-19)は、2020年にはわれわれの生活を大きく翻弄することとなった。新しい「見えざるもの」の登場だ。この見えざるものに対抗するため、われわれはお札のようにマスクをし、呪術のように手を洗い、自粛という名の忌み籠もりをする。時代が違っていたら、コロナウイルスも妖怪や鬼といった見えざるものたちと変わらないもののように受け止められていたのではないだろうか。
 ウイルスに限らず、人類はさまざまな見えざるものと関わってきた。日本では、その見えざるものたちを神と呼んだり、幽霊、妖怪、鬼などさまざまな形で表現し、その交流の物語を作り出し、描き出してきた。現代の医者のように、陰陽師が活躍したり、僧侶が調伏したりすることもあれば、小泉八雲のように解釈し海外に伝えた人物もいた。
 本フォーラム「見えざるものたちと日本人」では、まずワークショップを2回開催し、「見えざるものをエガク」として美術史の観点から、「見えざるものをカタル」として主に民俗学の立場から論じていただいた。その上で、基調講演では、湯殿山信仰、つまり修験の世界、小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)が観察した見えざるものたち、そして陰陽師といざなぎ流という広い観点から議論していただいた。興味深い視点をいくつも見いだすことができるだろう。本報告書が、あらためて見えざるものと日本人について考えるきっかけとなれば幸いである。」(平藤喜久子「はしがき」)

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『国際研究フォーラム「見られることで何が変わるのか―ツーリズムと宗教文化」報告書』

『国際研究フォーラム「見られることで何が変わるのか―ツーリズムと宗教文化」報告書』
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國學院大學日本文化研究所『国際研究フォーラム「見られることで何が変わるのか―ツーリズムと宗教文化」報告書』令和7(2025)年2月

 本報告書は、2023 年12 月に國學院大學研究開発推進機構日本文化研究所の主催で開催された国際研究フォーラム「見られることで何が変わるのか―ツーリズムと宗教文化」における議論をまとめたものである。
 日本文化研究所は、設立当初より、日本の宗教文化について、国際比較の視点を組み込みながら、研究を行うことを一つの主要な目的としており、近年の国際研究フォーラムでは、特に視覚文化との関わりにおいて宗教文化を捉え直すことを試みてきている(「見えざるものたちと日本人」2020 年度、「日本の宗教文化を撮る」2021 年度、「ミュージアムで見せる宗教文化」2022 年度。なお、これらの報告書も日本文化研究所のウェブサイトで公開されている)。
 これらのフォーラムでは、「見る」「撮る」「見せる」といった営みを念頭に置いて、そうした営みと宗教文化の関わりを問題としてきたが、本フォーラムは、これらを受けて「見られる」ということを論点として取り上げることとした。
 では、現代において、宗教文化が「見られる」のはどのような局面であろうか。企画を議論する際に、前述の「見る」「撮る」「見せる」といった営みと一層密接に結びつくようになってきているツーリズムを主題とすることが提案され、ツーリズムと宗教文化が交錯する場において、往還的なまなざしを受けて、どのような相互変容が生じているのか――見られることで何が変わるのか――という本フォーラムのテーマが設定された。
 コロナ禍を経て、今やツーリズムはあらためて隆盛しているように見える。そしてそれは、誰もがスマートフォンを用いて「見る」ものを写真や動画として「撮り」、それをウェブ上で不特定多数に対して「見せる」という現代的な状況と結びついているだろう。四つの報告は、それぞれギリシャ、台湾、ポーランド、修験道、と異なる事例を取り扱うものだが、いずれも、まなざしの問題に目を配りながら、ツーリズムと宗教文化の相互変容を取り上げるものである。本報告書が、現代における宗教文化のあり方を、あらためて考えるきっかけとなれば幸いである。(「はしがき」)

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『国際研究フォーラム「東アジアのグローバル化と宗教文化」報告書』

『国際研究フォーラム「東アジアのグローバル化と宗教文化」報告書』
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國學院大學日本文化研究所『国際研究フォーラム「東アジアのグローバル化と宗教文化」報告書』平成30(2018)年2月

 「本報告書は、2016 年10 月16 日に國學院大學研究開発推進機構日本文化研究所の主催で開催された国際研究フォーラム「東アジアのグローバル化と宗教文化」における議論をまとめたものである。
 フォーラムの趣旨は、グローバル化と高度情報化を受けて、特に1990 年代以降、地域を問わず宗教文化をめぐって大きな変動があったということを踏まえ、その変動が実際にどのような形で現れているか、またそれが人々の宗教に対する意識や関心にどのように反映されているのかといったことを議論しようとするものであった。更に、これを日本という一国だけに焦点を合わせるのではなく、東アジアという地域に的を絞り、その共通性と差異にも目を向けながら検討することを試みた。
 パネリストとして、川田進氏、Wei-hsian Chi 氏、Benjamin Penny 氏の三名をお呼びし、日本文化研究所からは井上が登壇した。本報告書には、当日の発表をもとにした論文をこれら四名のパネリストから寄せて頂き、Chi 氏とPenny 氏のものについては、その日本語訳を作成し、それらを収録している。
 なお、本フォーラムの前日である10 月15 日に、関連企画として国際ワークショップ East Asian Regional Preliminary Workshop for SISR 2017“ Globalizations and Religious Cultures in East Asia”を開催した。このワークショップは、本フォーラムと連続した問題意識の下で行われたもので、東アジアからの若手研究者を中心に、英語で研究成果を発表し、議論を行った。このワークショップについては別途報告書を刊行しているので、関心のある方には手にとって頂きたい。」(井上順孝「はじめに」)

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『国際研究フォーラム「日本の宗教文化を撮る」報告書』

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國學院大學日本文化研究所『国際研究フォーラム「日本の宗教文化を撮る」報告書』令和5(2023)年2月

 「誰もがカメラを持ち歩き、カメラに撮られる日常を送っている。ほとんどの人々が、折に触れて写真を撮り、カメラに写り込んでいる。街には防犯カメラも溢れており、車にもドライブレコーダーという名でカメラがついている。撮り、撮られることは、意識せずとも日常になっている。
 本報告書は、2021年12 月に國學院大學研究開発推進機構日本文化研究所の主催で開催された国際研究フォーラム「日本の宗教文化を撮る」における議論をまとめたものである。
 2014 年にInstagram の日本語サービスが開始され、2017年には「インスタ映え」が流行語大賞を撮った。だれもが写真を撮って発信するようになった時代に、私たち研究者はどう撮ることに向き合っていく必要があるのか。何を知る必要があるべきなのだろうかと考えるようになった。
 1980 年代、ジェイムズ・クリフォードら文化人類学者たちは「文化を書く」という行為をめぐって議論をした。研究者は学術的な行為として「書く」ことを行う。客観的に記述しているつもりでも、そこには書き手の意図が否応なく紛れ込んでしまう。書き手と書かれる側の関係、言語の違いも書くときには影響を受ける。では、「文化を撮る」ことはどうだろうか?写真は「真を写す」と書き、あたかも客観的で真実を写しだしているように思われる。しかし、同じ場所であってもまったく同じようには撮れないように、実は撮ることもさまざまな思いや条件の制約を受けるのではないだろうか。
 こうした問題意識のもとに構想されたのが、今回の国際研究フォーラムである。この議論をきっかけに、「撮る」ことの危うさと魅力を感じて頂けると幸いである。」(平藤喜久子「はしがき」)

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