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 日本文学専攻  

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日本文学の世界 2002.1.25.掲載

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タイトル!

  太宰の気持ちがわかるかな?

      =近代文学からあなたへの問い

 

              執筆担当近代文学 石川則夫

  

   もう数年前のことですが、田中麗奈出演のTV・CMで興味深いワンシーンがありました。若い男女は、学生服にセーラー服ではなかったけれど、たぶん高校生ほどの年齢設定だったと思います。恋人同士とまではいかない、でも友達以上のようなプラトニックな関係を感じさせる二人が列車に乗っています。ボックス席の窓側に対面して座り、窓は開け放たれ、光と風が車内に満ちて木々の緑の眩しさが後方へと流れていきます。なにやら懐かしいときめきが胸の奥から引き出されるような光景です。田中麗奈は何か飲んでいるか、食べているかしていましたが、前に座っている男の子は文庫本を読んでいます。その文庫本の表紙が少しアップになる。太宰治の『人間失格』なのです。(高校生らしき若者が車内で『人間失格』を読んでいる!それだけで私は感動したのです。)そういえば列車の窓外の景色もなんとなく「夏の津軽らしいなぁ」と思われて来るのです。そして『人間失格』と映った後か前か、読んでいる男の子がこう言ったのです。「俺って太宰の気持ちがわかるんだよなあ…。」(再び私は涙ものの感動です)田中麗奈は無言で何か飲んでいたような。何か飲料水のCMだったかもしれません。夏休み、鈍行列車の旅、何もかも忘れて読んだ小説、自分だけがこの小説の本当の読者だという、ひそやかな奢り。
 ところが、ここで無粋な研究者根性がむくむくと沸き上がってくるのを如何ともしがたかったのでした。「ちょっと待った!」と本棚から『人間失格』を取り出して、さあ、ページを繰ってみましょう。冒頭部の主語は「私」で始まります。三葉の奇妙な人物の写真を紹介した後、本文は「自分」という主語で統一され、自己遍歴を語る手記になります。「あとがき」に「私」が再登場し、三葉の写真と手記の入手事情を明かして小説は閉じられます。「私」という小説家と手記の主人公の「自分」は別人とわかります。「私」は氏名不詳。「自分」は、「葉蔵」「葉ちゃん」と呼ばれています。そうなんです。太宰は登場しないのです。『人間失格』を書いた人物のペンネームが「太宰治」と知られているだけなのです。
 では、「私」は「太宰」なのでしょうか。しかし、作中の小説家「私」には読者が感情移入する「気持ち」など表現されていません。そう、「気持ち」が嫌というほど書き込まれているのは「自分」、すなわち「葉蔵」「葉ちゃん」なのです。ということは読者にとってわかるのは「葉ちゃんの気持ち」であって、「太宰の気持ち」ではない。すると、件の男の子は肝心なところを誤読していたということになる。テスト問題なら0点になってしまう。
 しかし、『人間失格』を読んで「太宰の気持ちがわかるんだよなぁ」と確信して疑わない人々は実にたくさんいるのです。そして、それらの人々がそれぞれに確信した「太宰の気持ち」は、どうやら一つではないし、一つにできないのです。なぜなら『人間失格』本文に「太宰の気持ち」は書かれていないため、証明しようがないからです。にもかかわらず、『人間失格』は「太宰の気持ち」へと読者を誘ってやみません。実はこれこそが、近代文学の力なのです。つまり、読者は、「太宰の気持ちがわかる」自分をそこに発見しているのです。近代文学はあなたに問いかけています。

             太宰の気持ちがわかるかな?=あなたは誰ですか?