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雪部隊
占領地の警備や治安維持を目的として新設された師団の一つ。加茂(→「加茂」参照)を含む山形、秋田、弘前の各歩兵連隊を基幹として第三十六師団が編成された。派遣先として華北、ニューギニア島の西北サルミに上陸し、敗戦した。
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令状
在郷軍人を軍隊に召集する際の命令文書。赤色の用紙を使用していたため、「赤紙」と俗称された。
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ゴム長
ゴム長靴の略。日本にゴム履物が入ってきたのは、明治に入ってからのことである。その後ゴム履物業は、明治41年(1908)に最初の国産が行われ、産業といえるまでに発展したのは大正10年(1921)頃であったとされる。
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真似かた
真似形。一応はその類に属しているもの、はしくれ、形や様式をまねたもの、「……のようなもの」の意。「~のまねかた」で、「形だけでも……であるもの」の意味で用いる。庄内地方の方言では、「マネカシ」「マネカス」という。
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姥桜
ヒガンザクラ・ウバヒガンなど、花が開く際に葉がない桜の総称。葉がないことから、女盛りを過ぎて歯がなくとも美しさや色気が残り、なまめかしい女性を指すようにもなった。亡くなった貴人の乳母を埋めた傍に植えた桜が母乳のような色の花を咲かせたことから「うばざくら」と呼ばれているという伝説がある。
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婀娜
たおやかで美しいさまを表した漢語を起源とする。女性の艶めかしく美しい様子。中古から中世までは原則、漢語本来の意味で用いられていた。近世後期になると、特に女性の色っぽく艷めかしいさまを表すようになり、「いき」として視覚面からとらえた美意識を表すようになる。近代以降は、性的な魅力の面が強調されている。
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赤緒の藁草履
藁を編んでつくり、鼻緒をすげた履物。見た目をかわいくしたり足の指への負担を減らしたりするために、藁編みの鼻緒に布を巻く場合もあった。
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襤褸縫い
昭和10年代の庄内地方では、男女共通の普段着として木綿製の衣服にモンペイ(→「モンペ」参照)(現地ではマタヒヤリと呼ぶ)を穿いた。モンペイは暑い夏期以外で常用された。多くの場合は酒田(→「酒田」参照)で購入した木綿布を使用し、各家庭で仕立てられた。
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ほいと歌
調査継続中。
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合同葬儀
二柱以上の遺骨が帰還した場合に行われた地域全体での葬儀。戦死者の葬儀は、個人を合同で弔う戦死者葬儀と地域の戦死者全体を祭祀する招魂祭とを指す。
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家号
一家の特徴を基に付けられる家の称号。家屋敷の状態・初代の名前・出身地などに基づいた名称が多い。
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法蓮寺
加茂地区の現地調査では不明。調査継続中。
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新聞
第二次世界大戦中の昭和15年(1940)に通達された一県一紙制に基づき、山形県では「山形新聞」が県内の十紙を併合し、戦況を報道していた。ただし、当時の新聞は内閣情報局の検閲のため自由に報道することができず、結果として人々の間では、様々な憶測が飛び交うこととなった。
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ラジオ
山形県では、昭和12年(1937)に山形市に日本放送協会(NHK)山形放送局が開局した。昭和20年(1945)時点の聴取者数の割合は、34%程度であったとされる。その後昭和21年(1946)には鶴岡放送局が開局された。
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そうか、日の丸か。
月経の隠語。
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シベリア出兵
ロシア革命に対する武力干渉の一つ。大正7年(1918)から連合軍(日・米・英・仏など)がチェコ軍救援の名目でシベリアに出兵した。革命軍に敗北すると、米・英・仏は大正9年(1920)に撤兵した。しかし、日本だけは「治安維持・赤化防止」のため駐兵を続けた。日本軍は国際的威信の失墜、国内の出兵反論の拡がりなどによって、大正2年(1922)に撤兵を完了した。日本では73000人が出兵し、3000人以上が戦死した。
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義太郎
モデル不明。森敦のエッセイや書翰等からも推定不能。
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めんこい
方言で、可愛い、可愛らしいの意。庄内地方では「めんごい」「めんごえ」という。
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板子一枚、下は地獄
板子は、船の底に敷く板のこと。そのすぐ下は海であり、落ちれば命が助からないことから、船乗り稼業の危険なことをたとえていう。また、危険な仕事に携わる人が、わが身を船乗りになぞらえてもいう。